昭和五十六年七月五日 朝の御理解


御理解第五十九節
習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれでけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。


 神様も金光大神もそして、私共も喜び又、あえれるというおかげとは、どういうおかげであろうか。結局まあ、大工さんでも言うならば、五年間なら五年間とみっちり稽古をして、自分一人で家が建てられるようになる。いわば棟梁にもなれるというおかげを頂いたときにですね。だからそのお願いして、こげなおかげ頂いたというおかげでは、神も金光大神も自らの喜びということにならない。
 だから徳を受けるということ。ね。だから合楽では徳と受ける手だてを成る程と合点が行くように、しかもその気になれば、誰でも頂けるように、昨日なんかの御理解はそうでしたでしょう。神様が直接おかげを受けた人達のどの人のをとっても、例えば柴田さんの馬鹿と阿呆、大きなカボチャを冷凍、煮てあるのを冷凍しておけなんてん、もうこれに徹したら絶対お徳を受ける、力を受ける。それを自分のものにする迄が、やはり修行であり、稽古なのである。
 私は今日は五十九節でしょう。これはもう六十節の一歩手前だという、もうお徳を受ける一歩手前にある。という風に頂いたんです。五十九だからもうひとつたせば六十。
 昨日は神愛会でしたから、まあ先生方のまあいつもながらの本気で、いわゆる合楽理念に取り組んでの、布教の場の体験を聞かせてもらいましたが、どの先生の話を聞いても、もう一息という感じ。いわゆる五十九節でした。それはどういうことかというと、この合楽理念の基づいておると、合楽と同じような、なんというか神様の働きというようなものが、自分の心の上にもお教会の上にも現れて来るんだ。いうならば、いつも天地と交流しておる事がでける合楽と交うておることがでけるというお話というなら、その信者がどんどん助かってこういうおかげを頂いてという、その比礼というところまでいっておるお話ではないけれども、いわゆる五十九節です。だからこういう先生方のお話を聞いてこれがいよいよ豊かに大きくなってそれが自分のものになったときに、いわば金光大神も天地金乃神又、自らも喜べるときであると思うんです。
 だから今の頂いておられる信心をもう一回りも二回りも大きくしていかなければならんということです。もう本当にもう天地とのつながり交流ということの素晴らしさを笑い話のようにして話しておられましたが、昨日富永先生がある信者のお子さんにお下がりのおこしを、お菓子を上げられた。それをこうして見たところが、大阪(東京)の雷おこしであった。ほら、こりゃ雷おこしばいと云うてやった途端に、ゴロゴロち雷様が鳴り出したち。そいで、ほうら見てんなさい、神様がこげん喜びござるばいち、云いよる所へ、今度は本当にここで雷さんがゴロゴロち鳴り出したもんですからね。皆で本当に笑いながら何かじいんとするものを感じましたよ。ほんのしばらくでしたけれども、もう富永先生の話が終わらない所に、雷さんのというておるときに、雷さんがゴロゴロ鳴り出した。如何に天地と合楽が交流しとるか、合楽と富永先生とが交流しとるかち云うことが分かるでしょう。
 昨日石動の宮田先生が発表しとられましたが、もう一ヶ月間もう微にいり細にわたってこう合楽理念に基づいての生き方というのを、身につけていかれておる。そして有り難くなったり生き生きしたものがなくなった時には、結局私は合楽との信心を頂くと云うことは、合楽に対する傾倒だと思いますと云われましたね。合楽に対する傾倒なんだ。善い悪いは別として、もう合楽の信心にまあ云うならば、べた惚れしてしまうと云うことなんだと、そこから交流しするのがあると同時にもしそこに交流を欠いておるなら、今私は成り行きを大切にしていないということを気付いたという話をしておられます。だからこの様に合楽と交流しておるのですから、外の先生方の話もみんなそんな話でしたね。
 だからこれ程なら、合楽と交流し天地と交流する、手だてを合楽理念によって勉強しとるのですから、それが云うならば、本当なもの、大工の仕事を段々思えてひとりでに、一軒建ちのいうならば、建てられるだけの実力というものを頂いたときにね、初めてお師匠さんおかげで一人で家が建てられるようになりましたと云いや、師匠も喜び自分も喜べる。云うなら、ここでは神も喜び金光大神も喜び、天地金乃神も氏子もの喜びとこうおっしゃる。ね。
 だからここの所の御理解を私はその昨日、その神愛会の先生のお話の中からね、五十九を感じました。云うならば徳を受けるための、まあ本気での修行だから、どうでもその修行に徹しぬかなきゃいけない。そして六の、六は徳と云われますから。六十のおかげを我情がない、我欲がない、お徳を受けたというような、六十のならば、おかげを頂くためのもう一息。この調子を落とさぬように、いよいよ豊かに大きくなっていく修行さしてもらわにゃいけません。ね、傾倒するということがどんなに素晴らしいことかと。
 私はその話を聞いて、昨日の朝の事を食事の時の事を思い出して話した事でしたけど、昨日の朝お食事をさして頂くのに、この頃、こんなに目が薄いものですから、目の前に何が並んどるかわからん。おごっそうが、それでいっちょいっちょ、こりゃ何か何かち聞かにゃならん。そりゃちょこっとばかり盛っちあるとがありますから、こりゃ何かちいうたら、そりゃ「にがごりですよ」と家内が云うもん。「ああそうか」ち。にがごりはいつもでる。私が好きですから。ついであるちょこっとばかりじゃから、にがごりと思うて頂いた。頂いてしもうた時、家内がありゃこりゃ、あなた、にがごりじゃなくてかんころですばいち云うもん。大根のほしたつば煮てあるとじゃった。所が俺が頂いた時は、にがかったのにちいうて頂いたことでしたけれども、もうにがごりと思いこんで頂いたから、苦みを感じた、かんころのなかに。傾倒しきるというのは、私はそういう働きがあると思うです。それを例えば、親先生が白と云うても赤を白と云うても、傾倒しとる時にはそれが段々赤が白にみえてくるようになるのです。
 昨日有田さんと方が遠方から参ってきます。昨日も丁度夏期信行にお参りしてきておりましたが、昨日朝方お知らせを頂いて、もうこんな大きな鍋で今あのう「へいぼ」ちいいますね、この辺では今のへいぼち竹の子ですね、今の立つやつです。それを斜に切っていっぱいこんな大きな鍋で油で炒りあげておる所を頂いた。どういうことだろうかと昨日お届けがございましたが、これはね、例えば今日丁度あなたがこの合楽の夏期信行に会われた。夏期信行の事ですよ。竹の子と云うのは直と頂く。だから直を切って、そしてそれを油でじっくり上がるような修行が今、合楽では一時から夏期信行があっております。だからその夏期信行にあうと云うこと。だから直に合楽あげての行事に参加しておるということ。
 そのことがね、まあ云うならば、合楽に傾倒していくことの為の先ず第一なんだ。それは直心がやっぱいると云うこと。直な心の合楽で年に一回の云うなら夏期信行がある。普通はお参りが出けんけれど、こん時だけはと云うのは、合楽に傾倒しておると云うこと。そう云うところからね、合楽にいよいよ徹底してい傾倒するということにもなる。
 成る程油でその炒りあげてるような夏期信行をそう云うように云うてくださったんでしょうね。そういう私はあのう、毎朝、朝お参りよるけんでもうそげん、夏期信行にゃお参りせんでんとかね、全然それを教会でこう云うことがあっておるというそげんとにゃ、見向きもしないと云う人がありますもん。熱心な信者さんで、だからそういう信心では今日の御理解のね、その合楽の信心を生き生きと頂くということは、合楽に対する傾倒が出来なければね、今云う、例えば親先生が云われることははあ、そうどこじゃない。
 そりゃ赤を白と云われてもそうですといえれる所にです、云うなら信心の微妙さというですか、微妙な心の動きというですか、先生はあげん云うけれどもというところには、おかげはないです。先生がああ云われるからとそれに傾倒してけれる信心。
 そこから生き生きとした合楽との交流が生まれるなら、合楽との交流がしたから徳を受けたというのじゃなくて、そういう生き方を段々三年五年と続けていく中にです、ね、云うならひとつの事を体得出来る、もうこの生き方でいくより意外にないと云うような、昨日の宮崎の日向教会の先生がみえとりましたが、もう例えば、その教会の心というか、今日のくノ一会だそうですが、くノ一はここでするそうですが、この御理解が一番初めに頂いた御大祭のお説教を頂いて、もう家の生き方はこれでいくときめられたんですね。
 それから段々人が助かるようになり、おかげを頂いて先達から本部のまあ偉い先生方やら、教務所の先生方がどういうわけ合楽に参るかと云うことでいろいろあのう、みえたそうですけれども、それをもう私はよく、丁度その時立ちましたから、聞きませんでしたけれども、もうこうして合楽の信心を堂々と話してそして合楽と縁を切るわけにはいけないと云うことで、だから昨日もみえたわけでしょうけれどもね、このくノ一の修行に徹して云うならばおかげを受けておるという。だからそれをいよいよ本当なものになったときに、云うならば、日向教会の御比礼、日向教会のお徳ということにもなるでしょうね。
 昨日頂いた御理解の一言でもええからあれ自分のものにする、あれは神様が直接お話かけて下さったんですから、それを自分のものにする事に徹底すると云うこと。だから徹底していくために、たまにゃ失敗があったり、間違いがあったりなかなかそん通りにはいかないということもあるけれども、そこがけいこじゃないかね、
 いわゆる本当に覚えていくことの為の修行をさしてもらうて、いわば云うなら昨日の先生方の話を聞いてね、今日の御理解頂いて、この五十九節からね、もうひとつ、もう一押しで六十になる、徳になる。その徳を受けたときが素晴らしい事になるのじゃないでしょうか。そん為には合楽に傾倒する手だてをね、ひとつ勉強しなけりゃならん。どういうような生き方になったら傾倒出来るか、先ず直にならなきゃならない。ね。
 そこから合楽との絶えず、交流が出来る、いや合楽と交流すると云うことはそのまま、天地との交流ということになるのですから、それがいよいよ広く大きく交流するときに、大きな比礼を、大きなおかげともお徳ということにもなる。                               どうぞ